呪われた国日本への道―天野千春の雑記帳

天皇制解体の動きが活発化している。このままでは日本は、その歴史と伝統に呪われても仕方がない。天野千春の雑記帳。

モーツァルト 交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551(2)概説

1 概説

   1788年のモーツァルトの経済状況は芳しくありませんでした。前年12月に拝命した皇王室宮廷(室内)作曲家の俸給は、前任のグルックが年間2000フローリンであったのに対し、モーツァルトのそれは年間800フローリン(注1)で、2月5日には、ブルク劇場に次ぐウィーン宮廷劇場であったケルントナートーア劇場が閉鎖され、ジングシュピール上演の機会が減ってしまいました(注2)。                                     

    これはおそらく、前年8月から続く露土戦争に参戦するための財政措置の一環であり、この戦争のために皇帝ヨーゼフ2世は、1788年2月、自らセルビアまで親征しています。そのため、ウィーンに出仕していた貴族やその夫人たちは、戦地に赴いたり、自領に戻っており、1784年には174人を数えたモーツァルトの予約演奏会の予約者は激減(注3)し、演奏会の開催すら覚束無い有様でした。
    5月7日にはプラハで大成功を収めた『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン初演も行われましたが、期待したほどの反応はなく(注4)、モーツァルトが予定していた家計の収入と出金のバランスは崩れてしまいます。そこで、6月にはフリーメイソン会員のミヒャエル・プフベルクに借金依頼の手紙(注5)が出されています。プフベルクには、死の直前まで借金を依頼していました。
    K.551は、そのような状況の中で作られ、8月10日に完成しました。

    作曲の動機はよくわかっていませんが、この時期のモーツァルトの経済状況や、モーツァルトが職業的作曲家であったことを考えれば、何処からか注文があったか、演奏会のために作曲したものでしょう。但し、モーツァルトの生前に演奏される機会があったかどうかについては、確証はありません。例えば、演奏の機会がなかったとする立場のモーツァルト研究の大家、アルフレート・アインシュタイン(Alfred Einstein)は次のように述べています。ちなみに、文中の「アカデミー」とは、予約演奏会のことを言います。


    彼は、1789年の冬に数回のアカデミーを開催することができると希望していたのであろう。しかしアカデミーの開催は、この年にも次の2年間にもできなかった──最後のピアノ・コンチェルト(K.595)を彼は1791年3月に、ヒムメルプフォルトガッセの宮廷料理人ヤーンのコンサート・ホールで、クラリネット奏者ベールの音楽会に参加して演奏しなくてはならなかった。こういう事情だから、モーツァルトは最後の3曲のシンフォニーを指揮したことも、聴いたこともなかったかも知れない
(『モーツァルト、その人間と作品』浅井真男訳、白水社、1961年)


    愛称である「ジュピター」は、ローマ神話最高神ユピテルにちなんでつけられました。名付けたのは同時代に活躍したヴァイオリン奏者、ヨハン・ザロモン(Johann Peter Salomon)(注6)で、19世紀半ばにはヨーロッパに広く定着した(注7)といいます。
    自筆稿はベルリン国立図書館に所蔵されており、修正や訂正の少ないモーツァルトにしては、比較的多い修正・訂正の跡がみられます。


曲の構成
第1楽章 Allegro vivace ハ長調 4/4拍子 ソナタ形式
第2楽章 Andante cantabile ヘ長調 3/4拍子 ソナタ形式
第3楽章 Menuetto:Alegretto ハ長調 3/4拍子 複合三部形式
第4楽章 Allegro molto ハ長調 2/2拍子 ソナタ形式


編成
フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2(C)、トランペット2(C)、ティンパニ(C,G)、弦五部

 

 


(注1)
前任のグルックに比べて明らかに少ないとして、モーツァルトに批判的な宮廷からの圧力があったとする説(田辺秀樹など)がある。

一方、このモーツァルトの宮廷(室内)作曲家という地位は、ヨーゼフ2世がモーツァルトのために臨時に設けたもので、その職務は冬季舞踏会のための曲を書くだけの形式的なものであった。これは、職務に比して高すぎるとして、ヨーゼフ2世がモーツァルトがウィーンを離れるのを防ぐために行った人事だとする説(ソロモンなど)もある。
但し、舞踏会用の作品だけでなく、この時期の室内楽の一部もその職務として書かれたものとして、この職は実質的で妥当なものだったとする説もある(ヴォルフなど)。ちなみに、この時期の宮廷楽長サリエーリの給金は、年間1200フローリンだったという。

 

(注2)
ヨーゼフ2世の「ドイツ国民劇場」政策によって、ジングシュピールの公演は、宮廷劇場であるブルク劇場とケルントナートーア劇場が担っていた。ジングシュピールの公演は、1985年10月から閉鎖されるまでにおいては、ケルントナートーア劇場では週に3、4日のペースで行われていた。

松田聡『1786年5〜6月のラクセンブルク宮殿における舞台公演:同時期のウイーン宮廷劇場のオペラ公演との関わりにおいて』、大分大学教育福祉科学部研究紀要27巻1号、大分大学教育福祉科学部、2007年
http://opac2.lib.oita-u.ac.jp/webopac/27-1-1._?key=TVPBQB


(注3)
1784年3月20日付の父レオポルドへ宛てた手紙において、予約者174人の名前を列挙している。


(略)これが私の予約者全部のリストです。 私一人で、リヒターとフィッシャーを合わせたよりも、30人分も多く予約を取りました。
(柴田治三郎編訳『モーツァルトの手紙』100頁、岩波書店、1980年)


だが、1789年の予約演奏会の予約者は、スヴィーテン男爵一人きりになっていたという。


(注4)
モーツァルトの存命中に『ドン・ジョヴァンニ』がウィーンで上演されたのは、1788年の15回だけだった。


(注5)
例えば、1788年6月17日付の手紙にはこう書いてある。

尊敬すべき同志にして、最愛、最上の友よ!あなたが私の真の友人であることを、そしてあなたが私の正直な男だとお考えになっていることを確信していますので、私は元気が出て、自分の心を打ち明け、次のようなお願いを申し上げる次第です。私の生まれつきの率直さに従って、あれこれと体裁を飾らず、本題そのものに入ります。もし、私に対して愛と友情をおもちになり、千ないし二千グルデンを一年か二年の期限で、適当な利子をとってご用立て下さるならば、それこそ私が仕事をして行くのに大助かりとなります!せめて明日までに数百グルデンだけでも、お貸し下さるようお願いいたします。
(柴田治三郎編訳『モーツァルトの手紙』136-138頁、岩波書店、1980年)


(注6)
1745-1815。プロイセン、ロンドンでヴァイオリニストとして活躍し、興行師として活躍、1790年にはウィーンに居たハイドンをロンドンに招いた。尚、ハイドンがウィーンを離れる前日(12月15日)の送別会が、モーツァルトハイドンに会った最後だった。

Johann Peter Salomon ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Johann_Peter_Salomon(平成29年6月6日アクセス)


(注7)

1856年といえば、モーツァルト生誕百年という記念すべき年であった。この祝年の機会に、1859年にかけて刊行されたのは、オットー・ヤーン(1813~1869)による4巻に及ぶ膨大なページ数の『モーツァルト伝』であった。そのヤーンの評伝の中には、この交響曲について、次のように記されている。「この曲は、いつなのか、またどこでなのかわからないが、『ジュピター交響曲』という名が与えられた。深い象徴性を示す意図よりも、むしろ曲の荘厳さと輝やかしさを示すためであろう。」
(海老沢敏『モーツァルトを聴く』10頁、岩波書店、1983年)



ルフレート・アインシュタイン、浅井真男訳『モーツァルト、その人間と作品』白水社、1961年
メイナード・ソロモン、石井宏訳『モーツァルト新書館、1999年
クリストフ・ヴォルフ、礒山雅訳『モーツァルト 最後の四年:栄光への門出』春秋社、2015年
海老沢敏『モーツァルトを聴く』岩波書店、1983年
柴田治三郎編訳『モーツァルトの手紙』岩波書店、1980年
田辺秀樹『モーツァルト―カラー版作曲家の生涯』新潮社、1984
松田聡『1786年5〜6月のラクセンブルク宮殿における舞台公演:同時期のウイーン宮廷劇場のオペラ公演との関わりにおいて』大分大学教育福祉科学部研究紀要27巻1号、大分大学教育福祉科学部、2007年


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